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【The Last of Us2】ラストオブアス2のエリーは私の知っているエリーじゃなかった件【LGBT表現について】

 「ラストオブアス2」が6/19に発売になった。

 前作、「The Last of Us」(略称:ラスアス)は2013年6月19日にPS3で発売。

 主人公ジョエルとエリーの疑似親子が人が人でなくなった世界を、人として生き延びる過程を緻密に描いた良作ゲームだ。

 発売から5年でトータルセールスが1700万本を記録する大ヒットとなった。ついには映画化やドラマ化の話もあるほど、多くのメディアに影響を及ぼしているようである。

 

 「ラストオブアス2」

 今作は前作の大ヒットの続編として発売された。

 海外ではすでに「2」も高い評価を得ているようだ。

 しかし、今回私はその逆の感情を覚えたので、そのまま思いを表現していこうと思う。

 

 違和感の発症は数年前にさかのぼる。

 私は動画配信サービスで「ラストオブアス2」が発売されると知り、興味と関心が高まる気持ちで予告を見た。

 すると、序盤でエリーが女の子とドアップでキスしているではないか。

 

「え?なんでエリー画面いっぱいにキスしてんの?いつの間に?そしてエリーの相手誰?!」

 

 と頭に強い衝撃が走った。

 初版ラスアスしかプレイしていないのでわからないが、エリーがレズビアンである設定はストーリーから感じられなかった。だからこそ、2のCMでいきなりのユリ展開は、回避しようのないエリーの性癖を呆然と見つめるしかなかった。

 

 しかし、発売は延期され、2020年までその表現があったことは忘れていた。

 いや、まさか、という気持ちで見ないようにしていたのかもしれない。

 

 だが、発売されたラストオブアス2にはエリーとその恋人の表現がしっかりとなされていたのである。

 私はプレイすることを止めた。

 ゲームをつまらなくてプレイを止めた。ということは何度かあったが、ストーリーの最中に主要キャラクターのラブシーンを見ることが嫌で止めたことは今まで無かった。

 それと同時に前作の「ラストオブアス」のストーリーに愛着を持っている自分がいて、その自分が今作を受け入れがたいということが分かった。

 ちなみに前作も今作も、有名ゲーム実況者の動画を参考にしてプレイしていたのだが、今作のものはそのプレイ動画ですら見ることはできなくなってしまった。

 

 なぜこのような展開になることを選んだのか?

 疑問は今も晴れないが、前作のストーリーを振り返ろうと思う。

 7年前に発売された初代「ラストオブアス」では、ジョエルとエリーの「同志」や「親子愛」、「絆」が前面に押し出されたストーリーであった。愛は産まれたかもしれないが、「性愛」ではなかったと記憶しているし、あったとしてもプレイ本編に「描写」は無かった。

 そして寄生菌で荒廃した世界の中で、ジョエルとエリーは感染せずに目的(何を目的というのかわからないが)の地にたどりつくため、お互いを助け合いながら徐々に関係性を深めていくという過程が繊細に描かれており、すんなりと感情移入できた。

 しかし、今作は過程が無く、エリーとジョエルの登場の仕方も視点がバラバラに感じたため、到底感情移入はしづらくなっていた。

 導入部分の何分かでも、前作ラストの続きから成長するまでを描くことや、ジョエルまたはエリーの視点をプレイヤーにガッチリ掴ませてから他キャラクターが登場するほうが、混乱は少ないかもしれない。

 言うなれば「秘伝のたれ」的な。

 継ぎ足し継ぎ足しで伝統の味が守られる、的な。

 

 続編、という意味で出すのであればその方がプレイヤーの感情移入もできそうだ。

 あくまで筆者の考えである。

 

 また、自分はLGBT自体については嫌でも好きでもなく、それがありのままだとは思う。肯定も否定もしない。

 ただ、性描写は好きではない。

 愛しているから性交渉を画面上に絶対に取り入れなくてはならない、という考え方には否定的だ。

 そこは画面で出さなくても人間足りうる私たちは想像できよう。

 自分は画面上でエリーのそのような行為をみたくは無かった。拒否反応が出る。

 5年たって、エリーは当然14歳から19歳だ。恋する相手だっているだろう。

 でも主人公に感情移入していた自分としてはその「空白の5年間」のエリーを知らない。

 当然感情の成長もあったろうが、プレイヤーとして離れていたため、エリーの性格にたいして共感は薄れる。

 製作者側は毎日ではないにしろ、ずっとエリーとジョエルに対して携わっていただろうから「突然」感は薄いのかもしれない。

 そのギャップだと思う。

 「人々の共感」という考えでいくと

 「大人と子供」、「親子」は生を受けている以上、身近なものだ。

 この部分の「共感」は、マクロレベルの大きな輪で皆が体験している出来事だ。

 しかし、「LGBT」は誰もが経験している事柄ではないため、全員が「共感」することは難しい。

 その感情を理解しないことには、「身近」に捉えることは安易ではないと思っている。

 

 今作、私の知っているエリーは存在しなかった。

 私の知っているエリーとは、ジョエルとの関係性の中で見えた一部分のエリーだ。

 そして知らない「エリー」の「性行為(キス含む)」を強制的に見せつけられることになった。

 それが不快の理由だ。

 それが、受け入れられない理由だった。

 今のストーリー構成では、もし、エリーが男性とそうなっても嫌だし、エリーが男で女の子とそうなっても同じ結果になったと思う。

 

 ラスアス2のシナリオは何度も試行錯誤を重ねて作られたという。

 

 海外では賞賛されるゲームであったという。

 

 それはそれですごいことだし、完成度の高いゲームであることに違いないと思う。

 

 人の共感、感情移入、主人公の性描写、何をメインにするか

 

は、ゲームに限らず、とても難しいことだと思った。

 それと同時に、ラストオブアス2をプレイしてみて

「ああ、人はこのように共感していくのだ」

 と感情の変化に段階が必要なことの学びを得た。